今日本屋に行ったら気になるタイトルの本を見つけた。
この本を読んで、この著者に
「よくぞ書いてくれた!」
と拍手を送りたい気分だ。
「苦しまずに、ぽっくり逝きたい」
が年寄りの願いである。
しかし現実には、病院には(言葉は悪いが)
” 死ねなかった人々 ” で溢れている。
” 死ねなかった人々 ” = ” 生かされている人々 ”
自分で意思表示はもちろん、体も思うように動かせない。最近耳にしなくなったが一昔前でいう ” 植物人間 ”
食事も自分では摂取できないので、強制的に栄養補給される、管を通して。
鼻からチューブを胃まで入れて(経鼻栄養)、胃に直接管を入れて(胃ろう)、血管に管を通して(静脈栄養)
自分で呼吸ができなければ、人工呼吸器
自分で痰が出せなくなり窒息の危険が出てくると気管切開して気管カニューレを入れ
空気の通り道を作り、空気から酸素が取り込めなくなると、酸素を吸入
膀胱の機能が衰えて尿が自力で出せなくなると尿道に管を通し排尿できるようにする。
身体中に管だらけだ。
これが、1日24時間、ほぼ生きている限り続く
弱った体に不愉快な事このうえないと思う。
(患者本人は訴える事が出来ないのでどう感じているかは永遠に不明ではあるが...)
術後の経験から言うと、繋がれた管もちゃんと重力を感じる、つまり ” 重い ”
呼吸数、血圧、血圧中の酸素飽和度、心電図を常時把握するためのモニターがつけばさらに不愉快なものが増える。
経験した事がない人にはわからないと思うが、長期間モニターも装着していると熱を持ったり、貼り付けている部分が痒くなったりと不愉快このうえない。(あくまで個人的な意見ではあるが...。)
” 植物人間 ” まではいかないが、意思表示はできないが少し体が動く人はさらに過酷かもしれない。
無意識のうちでもこの管を抜くようなことがあったら、悪さをしないように管を引き抜かないように手を足をベット柵に固定されたりすることもある(身体拘束)。
” 管を抜く ” という行為は時として、命にかかわることもある。
患者本人に大変な負担を与え申し訳ないと思うが、医療側の人間からすると ” 必要悪 ” なのである。
” 管を抜く ” その瞬間を阻止するには24時間その患者の側にいる必要がある。
現実には無理な話である。
たくさんの管に繋がれ、体を長い時間 ” 生かされている ” と次第に筋肉は瘦せ衰え拘縮し ” 生きた屍 ” となる。
そんな姿を見て、誰もが 『こんな風にはなりたくない。』と感じるだろう。
そこに『 人としての尊厳 』がそこにはあるとは思えない。
そんな医療が当たり前のように行われてるのが現状である。
” 死ねなかった人々 ” = ” 生かされている人々 ” にならないためにはどうすればいいか?
この本の著者が書いているように、医療に関わらないこと。本当にそう思う。
「だんだん食事量が減り元気が無くなってきた。」
と言って家族が高齢者を病院に連れてくる。
検査をしても特に悪いところもなく、老衰によるものであると思われる。
こういう患者は食事量とともに水分の摂取量も少ないから、血液検査をすれば多少の脱水傾向が見られる。
「食事量が少ないし少し脱水症状も見られるので点滴をしましょうか?」ということになる。
点滴を終えて、脱水症状が改善されると少し元気になったように見え、家族も安心する。
しかし、本質的にな何の解決にもなっていない。これを繰り返すことになる。
1週間に1回が2〜3日に1回になり、毎日になると「家族の負担が大変なので入院させてくれ!」ということになる。
本人がまだ動けるうちは、それだけでは入院は難しい。しかし、さらに体が弱り立つことも難しくなった段階で大概の家族は救急車を呼び病院に連れていく。
そうなったら、
” 死ねなかった人々 ” = ” 生かされている人々 ” の仲間入りである。
「高齢なので自然のままに...」と家族が願ったとしても、病院というところは病気の治療をするとこをなので、治療を必要としない患者をいつまでも置いておくわけにはいかない。老衰は病気ではないのだ。
かといって介護力のある家族は少ない。
仕方なく点滴で命をつなぐことになる。
胃瘻、経鼻栄養、高カロリー輸液は希望しなくても、「水分補給の点滴ぐらいなら...」と考える家族は多い。
見た目には針を刺されているだけなので苦痛はあまりないように思えるのだろう。
私はたった3週間持続点滴しただけだが、初めの2〜3日はいい。苦痛の少ない場所に針が留置されているから、しかし日にちが経つにつれ血管がだんだんダメになり、その度に場所を変え針を留置する。次第に針をさせる場所はなくなり、手の甲の血管に針を留置された時は1mmたりとも手を動かすと激痛が走り苦痛極まりなかった。
このころには点滴が本当に辛くて「泣き」が入っていた。
「この血管がダメになったら今度は足に刺すから!」
と看護師さんに無情にも宣告されたところで退院のお許しが出たから幸いにも足に針を刺されたことはない。
持続点滴は辛いのだ! 私はこれ以来点滴が大嫌いである。
高齢者なら尚更辛かろう。腕が細いと駆血帯を巻くだけで骨が折れそうだ。脱水なら血管もなかなか浮き出ないだろうし、針が刺せても血管も弾力がなく脆いので後が大変そうだ。
手にも足にも針を刺すところがなくなると、看護師さんから医師に泣きが入る。
「点滴を刺すところがないのでどうにかしてほしい。」
すると、医師は心臓に近い中心静脈を切開しカテーテルを留置し、そこから点滴を入れることになる。
中心静脈は自分で体験したことがないので、切開された後が痛むのかどうかわからない。でも怪我した後2〜3日は痛む。多分全く痛くないというわけはないと思う。その頃の患者は傾眠傾向なので痛みには鈍感である可能性もある。(確かめようがないので解らない。)
中心静脈にカテーテルが留置されているため、細菌が入りやすく感染症を引き起こしやすくなる。感染症を起こすと抗生物質を投与する。
全身状態が悪く敗血症を引き起こした場合は中心静脈カテーテルを抜き、また末梢からの点滴に戻る。
この無限ループが命尽きるまで続くことになる。長ければ数週間から数ヶ月......
不毛だ.......。
でもこれが現在の医療、踏み入れたら最後命尽きるまで無限ループの中に引きずり込まれる!
孫と一緒に遊んでいる最中に突然倒れた高齢の女性
驚いて家族が救急車を呼ぶ。
救急搬送され一命は取り留めたものの呼吸停止により無酸素状態が続いたため脳が損傷受けた低酸素脳症状態つまり植物人間
友人たちと一緒の時に突然倒れた天涯孤独の老人
驚いて友人が救急車を呼ぶ。
友人たちは一人の時ではなく皆のいるところで倒れたので、良かったと口々に喜ぶ
脳出血。一命を取り留めたものの自発呼吸もできず人工呼吸器を装着され意識はもちろんない。
もし周りに誰もいなかったら、多分「ぽっくり逝けた人々」
倒れた瞬間、苦しかったかどうかは本人のみぞ知る。
一人暮らしの高齢の女性
新聞配達員が新聞が1週間ほどポストに溜まったままになっているのを不審に思って通報、玄関先で倒れているのを発見された時には下になっていた右半身には頭から足までひどい褥瘡ができていた。脳梗塞。驚くべきことにこの女性、時間はかかったものの、褥瘡も治癒し歩けるまでに回復した。
周りに人がいなくても、「逝けなかった人」というか「超ラッキーだった人」
目の前で倒れた人を見たら、とっさに救急車を呼ぶのは自然なことである。
それが家族でも、見知らぬ人でも!
その瞬間は
” 死ねなかった人々 ” = ” 生かされている人々 ”
になるとは誰も想像しない。
「助かって! 元気になって帰ってくる!」
と信じて救急車を呼ぶのだ。誰もそんな人々を責めたりしない
家族と暮らし、デイサービスに通う高齢の男性
その日も朝ごはんを家族と一緒に食べ、身支度を整え、玄関先に置かれた椅子で迎えの車を待つ。迎えが来て眠っているように見えた男性の肩に触れた瞬間に体が崩れ落ちた。亡くなっていたのだ。
家族もびっくりの大往生である。
皆が望む100点満点の「苦しまずに、ぽっくり逝きたい。」の一例ではないだろうか!
” ぽっくり逝ける人 ” と ” ぽっくり逝けない人 ” の違い
その人の持っている業の違いなのだろうか?
”大往生” それは誰もが夢見る、しかし現実には簡単そうで非常に難しい
私にはほぼ不可能に思える。
”大往生” 実現するためには、できるだけ医療に関わらず、財布の中には自筆で書いた尊厳死と延命治療拒否を希望することを書いたリビングウイルカードを入れ、家族にしっかり理解してもらう必要があるだろう。
しかし、だからと言って希望通りになるとは限らない。
家族の介護力があり、理解してくれる医者に出会えたなら格段と達成率は上がる。
大往生できる環境が整った世の中になればこんな心配する必要もないのだが....
どうなることやら
同じ著者の書いた本、こちらも今度是非読んでみたいと思います。